エゴの解放と健全なサポート

子供の頃に、カセットテープで初めて自分の歌を録音して聴いてみた時の衝撃を今も覚えている。 自分の声って。。こんな?!。。

テープに流れる音楽と合わせて歌っていると、自分は上手いんじゃないかと錯覚が起きる。 が、リアリティは残酷なほど酷い。 のっぺりとしていて、かすかすで。。酷い。

いつも誰よりも自分の声を聞いていたはずの自分が、自分の声をまったく理解していなかった事実を、子供ながらに突き付けられる。 それはとても恥ずかしい感覚だった。 まるで裸の王様的に。

 

そして、先週は瞑想のリードの録音をする必要があり、機械を借りて取り組んでいたのだけれども、やっぱり僕は裸の王様になった。 自分の声を聞く事が耐えがたい。逃げ出したくなる。

普段ヨガのクラスを声でリードしているのに、自分の声を嫌って言うほど聞いているのに、録音機から聞こえる声は自分のそれとは全く違う。 それは、骨伝導と空気伝達の違いみたいなこともあるだろうけど、それだけでもない気がする。

  結局の所、僕は自分の声をイメージでしか聞いてないみたいだ。 何となくの心象風景のように。 それは結構手の加えられたイメージ。 自分にとって都合のよいイメージ。 そしてそのイメージが覆されると、メリメリと皮が剥がされ、見覚えのない変な中身を目の当たりにして動揺する。 曝されるからだ。

  それは、僕のエゴが僕に見つからないようにとそっと隠していたものだ。 それが光に曝されて、ジュウジュウ焼けて、惨めに現れる。  

でも、その惨めさがいい。 それによって僕のエゴは、ひとつの隠すという仕事から解放される。 それを隠そうとしていた理由付けからも解放される。 かなりのエネルギーのリリースがなされる。  

ヨガは、エゴを否定して消滅させようとはしない。 エゴが、健全に人生の必要な仕事を出来るようにサポートする。  

だから、かなりのエッジの中で唸っていたこの作業も、終わってみたら、ひとつ軽くなっているマインドを感じる。

そして目に見える大きな変化は、実際のクラスでのリードの声が変化していることだ。 明瞭さが増えて聞きやすくなったみたいだ。シェアもあったし、自分でも感じる。 これは、僕が自分の成長とエゴの健全なサポートの為に必要なことだな。  

リアルな自分の声を曝すこと。

取り組んでいこう。