心に琴線を張り合うこと

今朝の瞑想クラスが終わりシェアをしていて、
「誰かと一緒に座る」
ということがとても助けになるという話があった。
僕もそれはとても感じていて、このことの恩恵は大きいなと思う。
それは何かというと、第三者の視線がそこにあるということ。
自分の事を観ている、感じている意識がそこにあるということ。
そのことによって人は自分を律したり、俯瞰して観察する意識を持てる。
そうでなければ、心は琴線を保てない。ただ単に流されるままになってしまう。
夏の暑さにグッタリしてしまうように。

ヨガや瞑想では、自分の中にこの第三者の視線を作り観察する事で、心に琴線を張る。
ピーンと伸びて感度が上がり、触れれば、気づきが広がる琴線。
でもそれを一人で貼るのはなかなか大変だから、一緒に練習して張り合う。
それが一緒に座るということ。
それはオンラインであっても一緒で、そうすると距離的な問題が無く張り合える。
そして思ったのは、この練習、張り合いをオンラインでする意味は、最終的には距離も空間も介せずに、人と人とが互いの琴線を張り合う進化段階なのかな。と。
実際に僕も、慈悲の瞑想をする時、オンラインの時の感覚が役に立っている。
親しい人、生きとし生けるものと思い浮かべるのがイメージしやすくなった。
そういう感度が全体に高まってくれば、祈りや虫の知らせのようなものも、馬鹿に出来ない、新しい第6感として浸透してくるのかな。
常に自分の中に介在する誰かがいること。
亡くなってしまったあの人が、いつも中にいてくれる感謝。
常に誰かの中に介在する自分でいること。
自分も実はそうであるという存在。
オンラインでの探求もなかなか奥深そうだ。