祈りは意味のある偶然性の一致

今朝の夢の中で僕は、何処かのホテルの一室で椅子に座っていた。
「昨日の夜、飛行機に乗ってここに来たんだっけ?」
などと思いながら、お腹が空いたから町に朝食を食べに出た。
その町並みは所々廃墟のように崩れていて、その崩れた場所にはびっしりとロウソクが立てられ火が灯っている。周りには何かを祈る人々がいる。顔は見えないんだけれども、優しくにこやかな表情をしているのは分かった。
「ああっここは広島なんだ」
と何故か思う。町並みも全然違うのだけど、そうだとわかる。
すると僕は嬉しくなった。
他にも違う表現があるんだろうけれど、それが一番しっくりくる。
僕は嬉しくなった。
目が覚めて、今日は広島の日だなと改めて思いだす。
わが家にはテレビが無いから、明日は何の日なんて事を意識しない最近だけれども、無意識的には上がって来てたみたいだ。
そしてあの、町中でにこやかに祈っていた人々。
それは現実に、今この瞬間、広島を祈ってた人々なんだろうという気がする。その人々の意識が僕の無意識に働きかけている。

カール・ユングが共時性と表現したように、祈りはまさに、誰かの無意識に働きかける意味のある偶然性の一致だ。
誰かの祈りは、そのまま僕の無意識の中に知らずに祈りを起こす。そこでは、僕は祈っていてもそうでなくても一緒になる。
無意識的な一体感。共感。
そういうのって有り難いなと思う。そしてやっぱり嬉しいなって思う。
僕も祈りを捧げる時、同時に誰かの無意識に祈りを起こしているかも知れない。
そういうものを実際に感じられると、一人であることが無力でなくなる。
それが祈りの効果なのかもしれない。
そして、そういうものをこそ信頼していきたいとな思う。