言葉に出来ないという言葉を発見する

「はじめに言葉ありき」
という新約聖書の最初のフレーズが、最近ずっと耳の奥に残っている。
それまで僕は、言葉というものは、
これを「りんご」にしょうとか、あれを「山」にしょうとか、
同じグループの人々が話し合って決めて、作りあげてきたものだと思ってた。
でも実は、言葉は世界がはじまるよりも以前に既に存在していたという話。
なるほど、そうでなければ、そもそも話し合いをするその言葉自体がどこからきたのかって疑問が残る。
鳥が先か卵が先かの答えにも通じてる。
どちらも世界がはじまる前に既に存在していた。
そして私達は、それらをただ発見していく。

僕は元々はあまり話しをしたりするのが苦手なタイプだったので、言葉に依らないものに憧れていたところがある。
ヨガもクラス中は自分自身に集中していればいいし、言葉は必要ない。
それでも、そのヨガの体験を仲間とシェアする時には、言葉が必要となる。
上手く言語化できる時もあれば、そうでない時もある。でもどちらでもいい。
何故ならば、僕は誰かに理解して貰いたくて言語化しているわけではないから。
自分の体験を通して、自身を理解したくてそれを発見しょうとしているだけだから。
既に世界に存在していた言葉は、既に世界に存在していた意識そのもの。
意識が体験をしている時、潜在的な言葉も実は一緒に拾っている。
『言葉にならない想い』すら、もう既に世界に存在していた言葉、意識に含まれている。
だから、『言葉にできない』という言葉を発見する。
『何も語らない』ということを語っている。
だからどちらでもいい。
そしてそれを発見していくことは、まさに生きている喜びそのものを見つけることだから、また誰かと言葉をシェアしていくんだろう。
そんな日々は、とても心が安心する
