個性的である必要のない個性

「個性的になりなさい」
という言葉には昔から違和感があった。
それっていうのは “なる” ものなのかどうかという点で。
子供の頃の僕は、自分一人で過ごすのはまったく苦痛ではない子だった。
一人でずっと本や漫画を読んだり、壁を相手に野球ごっこをしたり、片道2時間かけて自転車で釣りに行ったりと。そういう自分と一緒にいるのは本当に楽しかった。たぶん、何の思惑もなくそのままで個性的だったからだ。
でも思春期を過ぎた辺りからは、自分と過ごすのが少しキツくなった。たぶん、他人に比べての自分の平凡さが目についてきたからだ。
そうすると、個性的であろうとして、ぎこちないことをあれやこれやとしてしまう。
そうするとますます、ぎこちない自分と一緒にいるのがキツくなる。

アーユルヴェーダには
『プラクリティ』
という言葉があって、これは個人の生まれ持った気質を意味します。
お母さんの子宮に受精したその瞬間に、私のプラクリティは決定するそうです。
体格であったり、性格であったり、精神性であったり。
そして大事な点は、
『プラクリティは変わらない』
ということ。
生まれ持っての自分の気質、つまり宿命のようなものは変えることが出来ないということ。
でも私達は、家族や社会との関わりの中で、このプラクリティを忘れてしまう。
あの人のような身体になりたい。
あの人のような性格になりたい。
あの人のような人生になりたい。
そうやって本来は変えることが出来ないものを変えようとして、ぎこちなさをますます着込んでしまう。
ヨガをすることは、そのぎこちなさにひとつひとつ気づき、脱いでいくことだと思う。
何の思惑も無く、何になることも無く。

そしてそのプラクリティに戻ったら、深呼吸をして、また日常に戻っていく。
そこには、
「どうしょうもなくそうである自分」
がただいて、やるべき事が転がっている。
そんな自分と過ごすのが、きっと個性だ。
個性的である必要のない個性。